大阪金陽会沿革(小史)
 
大正9年夏心斎橋、喜久屋食堂において、在阪五中同窓生相集いて五中同窓会の大阪支部としての大阪金陽会が誕生した。
この時、在阪者以外に姫路・京都からも参集し盛大に発足をしたと記録されている。
以後、会の運営は諸先輩の奉仕により受け継がれ、戦後大阪の復興と共に当会も始動し、菅野久一氏(五中11回)を会長に選びて組織としての基盤を固めるのである。
菅野氏は、職務の傍ら会の為に東奔西走、手作りの機関誌を発行しては自身で配布しながら根気強く在阪同窓生に積極的に勧誘されて今日の母胎を築かれ、昭和39年に惜別するまでの10数年間、会を護り続けられた事は特筆すべきであろう。
その菅野先輩が逝去された翌年の昭和40年、来田掃雲氏(五中24回)が中心となり市内福島区グリル孔雀にて菅野会長後の会運営について有志相寄りて懇談し、会長に亀田神三宝氏(五中15回)を、副会長兼事務局に来田掃雲氏を、会計には鬼追明夫氏(五高28年)の各氏を選ぶ。
その後来田先輩の闘病等があって、昭和47年まで一時空白の時を過ごすのであるが、その間昭和41年母校創立70周年記念事業には亀田会長を中心にして積極的に協力し募金割り当て額を大幅にクリアしたことが記されている。
昭和47年本校同窓会長に大阪金陽会のメンバーであった的場太郎氏(五中28回)が就任されたのを機会に大阪金陽会を再建しようとの声が上がり、当時高齢にも関わらず亀田会長が率先して在阪会員に呼びかけて再建の為の準備作業が西区ニューオカザキバシビルにおいて再三行われ、同年11月23日近鉄百貨店において再建総会と銘打って五中卒のみならず五高女・五高卒の面々も参席し再建されたのであった。又機関誌「大阪金陽」も同時に復刊している。
以後、来田先輩の熱血溢れる母校愛と金陽健児魂、大阪金陽会に対する熱意に多くの者が感動し氏を助けたのであった。
昭和51年亀田会長よりバトンを受け継いだ紙谷会長(五中24回)は、当会を単なる親睦会のみにとどまらず広く人生・事業における指針をうけ影響を及ぼす場でありたいとして年1回の総会以外に月例会の開催を始めた。昭和54年紙谷会長より引き継いだ竹田会長(五中41回)にあってもこの月例会は隔月に実施していた。
竹田会長に入ってからは会の運営がより活発になり、特に若い世代の入会が相次ぎ時代に対応した組織の拡充に努めてきた。
平成8年、竹田会長が本校金陽会会長に就任したため、西尾安司氏(五高26年)が会長を引き継いだ。その間平成10年には本校金陽会総会の開催を大阪金陽会が担当し、難波のサウスタワーホテルにおいて約400名の参加のもと盛大に開催された。
氏の3期6年の任期は、温厚な人柄のもと会員が結束し、会の運営が揺るぎのないものとなった。
その後、平成14年西尾氏の後任会長として井平康彦氏(五高28年)が就任することとなった。
氏は、実業家らしく着実な会運営に徹し、魚谷嘉孝幹事長(五高28年)と共に尽力され、本部金陽会を常に支えながら3期6年の任期を全うされた。
平成16年には本部金陽会の杉崎善之助会長の退任に伴い、大阪金陽会の会員であった鬼追明夫氏が本部金陽会会長に就任された。
平成20年、若手の会長との声に応えて、米田修三氏(五高42年)が就任。同時に永らく途絶えていた会報『大阪金陽』を復刊、ホームページ『大阪金陽会』を立ち上げ、丹原敏男幹事長、杉本力雄会計と共に時代に対応した組織の基盤整備に取り組みながらの3期6年であった。
平成26年氏は本部金陽会会長に就任した為、表野哲氏(五高47年)の就任となる。
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